A History of Tea

The History of Tea: Legends from China and India.
お茶の歴史:中国とインドの伝説から

お茶の起源に関しては、神話と事実が混在し、さらには古代の精神性や哲学によって脚色されています。

ある中国の伝説では、お茶の起源は、紀元前2737年、熟練した科学者でもあった時の皇帝神農が偶然発見したと伝えられています。庭でお湯を飲んでいた時、野生のチャの木の葉が偶然鍋に入ってしまったのです。神農はいたくその「飲み物」を気に入り、チャの木の研究を始めることにしました。この伝説によると、神農はチャの木の薬効も発見したと伝えられています。

またインドに伝わる別の伝説では、仏教の禅学校を開いた聖人、ボーディ・ダルマ(Bodhi-Dharma)王子がお茶を生み出したと伝えられています。520年、彼はインドを離れ、仏教を布教するために中国へと向かいました。王子はまず禅の原理を証明するために、9年間眠らずに、壁に向かって瞑想をするという誓いを立てました。その修行中、彼は眠気を防ぐためにまぶたを切り取り投げ捨てました。その捨てられたまぶたの下からチャの木が生えた、というものです。この伝説から、お茶を飲むと眠くならない、という言い伝えが生まれたそうです。




Popularization in the Far East.
極東での普及

伝説がどうあれ、お茶の起源を辿ることは非常に困難です。チャの木の由来は、中国南西部、チベット、そして北インド周辺の可能性が高いと言われています。中国からの貿易商がこれらの地域を通った際、薬としてチャの葉を噛んでいる人々に出会った可能性は否定できません。

しかし「茶の時代」と呼ばれる唐の時代まで、お茶はなかなか普及しませんでした。時がたつにつれお茶の人気は段々と高まっていくのですが、その証拠の一つに、時の政府が課した「茶税」というものがあります。この時代には既に、お茶は中国発祥と認められていました。

唐の時代、仏教の僧侶 Lu Yu が記した「Ch'a Ching」という本があります。彼はその本で、お茶の種類、用途、飲み方、飲んだ時の効果などについて説明しています。さらに重要なのは、Lu Yuは仏教、道教、儒教などの宗教思想を反映した、精神的な美学をお茶とあわせて論じたことです。これらの教えは、伝統的な茶道を中心に後世に伝えられていきました。宇宙の法則、世界を流れる調和といったものを、お茶を通じて感じていたのです。

続く時代は、ロマンチックなお茶の時代として知られています。宋時代(960〜1280AD)では、詩や美術など、芸術的なものに「お茶」が溢れていました。この時代の中国文化は極東の地の芸術、政治、宗教などに大きな影響を与えました。

1867年、中国広東省
1867年、中国広東省



Tea Enters Japan.
お茶の伝来

9世紀初頭、日本の仏教徒・最澄などが、日本に茶を伝えました。遣唐使として唐へ留学している間にお茶を発見した最澄は、チャの苗木を持ち帰り、その後も他の留学僧がこれにならい、すぐに小さな茶園が人里離れた寺院に生まれたのです。しかし、これらの茶園は一般の人々からは離れていたため、日本でのお茶の普及は、13世紀まで待つこととなります。

当時の最も一般的な茶の製造方法は、石臼で繊細な茶葉をきめ細かい粉にするものでした。この粉末を抹茶と呼び、日本の伝統的な茶道の前身「茶の湯」に用いられ、また禅僧である栄西によって広められました。抹茶は竹を使った「茶筅」を用い、職人手作りのお椀である「茶碗」に入れて飲みます。




A Modern Tea Custom Emarges.
近代茶の登場

明王朝の時代まで、今日のように、茶葉を水に浸して茶を抽出する、という試みはなされていませんでした。茶葉をレンガのように圧縮するか、もしくは石臼で挽くなどして、茶葉は乾かされ、揉捻され、そして鍋で加熱されることによって酸化発酵を止められていました。お茶を淹れる際には茶筅など使わず、シンプルに、茶葉をお湯に淹れるだけでした。

17世紀、日本に旅行に来た中国僧が、ある新しい揉捻がなされた茶葉を持ち込みました。その後間もなくして、京都の茶商人永谷宗円が、新しい製法である、蒸し、乾かし、揉捻する、緑のお茶を完成させました。この製法によるお茶は、今日「煎茶」として知られており、日本を代表する、お茶文化の柱となっています。




Discovery of Tea in the West.
西方のお茶

ヨーロッパと東洋とを行き交う商人、宣教師、あるいは探検家たちは、中国と日本からもたらされるお茶文化に触れていました。9世紀頃のアラブの取引書に、苦い茶葉を煮出す手順が書かれています。またその後、マルコ・ポーロが、東方への旅の中でお茶を発見していたことをほのめかす記述も発見されています。

1720年 ジョセフ・ヴァン・アーケン 家族のティータイム
1720年、ジョセフ・ヴァン・アーケン作「家族のティータイム」

しかし、17世紀まで、西洋ではお茶を見られることはありませんでした。ポルトガルの宣教師たちがポルトガルと中国の間を行き来していたため、ヨーロッパにお茶が運ばれることもあったのですが、1610年にオランダの商人が関係してくるまで、真面目に取引はされてこなかったのです。その年、オランダの東インド会社の船により初めて、日本と中国からの茶葉がヨーロッパにたどり着きました。

また、かの有名なシルクロードを通り、中国からやってきたラクダの列を辿って、ロシアへと紅茶が伝わりました。そうしてお茶の人気は、アムステルダム、パリ、ロンドンを中心に急速に広まりましたが、高級なお茶は、王家や貴族といった上流階級のみに流通しました。その当時では目新しかったお茶は、富裕層が探検と発見の時代に、東方への冒険に参加する契機となったのです。




The Birth of an English Love Affair.
英国紅茶恋情

イギリスはすぐにはお茶に飛びつきませんでした。当時はコーヒーが主流で、嗜好飲料としては主に男性がコーヒーハウスで楽しむものに過ぎませんでした。「お茶は体に良い」という風評を聞いた女性たちの間で、ゆっくりとお茶は広まっていき、1657年、トーマス・ギャラウェイがオランダ人から茶を買い付け、イギリスで初めてのお茶の販売店を開いたことで、ようやくロンドンのカフェやコーヒーハウスにもお茶の知名度が広まることになります。

そしてポルトガル王国ブラガンザより来たキャサリン王妃とイギリスのチャールズ2世が結婚したのをきっかけに、チャールズ2世はお茶を熱愛するようになり、「ティータイム」の概念を王宮に取り入れると、お茶はさらにその存在感を確たるものにしました。

そのすぐ後、イギリス東インド会社はオランダに対抗するように、彼ら初となる茶工場をマカオに建てると、その地を東アジアへの橋頭堡としたのです。




A History of the Tea Monopoly - The British East India Company.
茶独占の歴史――イギリス東インド会社

1700年代初頭には、イギリス東インド会社(ザ・カンパニー)が支配的な貿易勢力として台頭し、中国との茶貿易を独占するようになりました。インドに取引所が並びたち、ボンベイ、ベンガル、そしてマドラスを拠点としたのです。ザ・カンパニーは、まるで王宮の近衛兵のように強力な権力を振るい、大英帝国を作り上げるのに大きな役割を果たしました。そしてそれは茶取引にかぎらず、土地、軍備、そして英国法を適用させる権力にまで及んだのです。

次の世紀まで、イギリスは利益と政治の為に茶貿易を利用し続けました。しかし、1763年頃、アメリカに新植民地が増え、地政学的変化がおこり、フレンチ・インディアン戦争にまで至ると、ザ・カンパニーの抱えていた特権が脅かされ始めました。さらにカンパニーは、財務ミス、内部の腐敗、そしてお茶の密輸などにより苦しめられることとなります。




Tea Spreads to India: Introducing Darjeeling and Assam Tea.
インドへの展開:ダージリンとアッサムの起こり

カンパニーの強大な支配力にも負けず、中国は1800年代半ばまで、西方需要による紅茶の主要な産地のままでした。そこでイギリスの紅茶委員会は、中国への茶の依存を終わらせるために、イギリスの植物学者「ロバート・フォーチュン」を、紅茶の製法を盗む目的で中国へと送り込んだのです。中国商人に偽装したロバートは、農業や加工技術を学ぶために中国中を駆け回り、そしてついに、お茶のサンプルと、中国のお茶の専門家を連れ帰りました。これによって、イギリスでの茶栽培やお茶の実験が可能となったのです。

アッサム地方、お茶の祭り
アッサム地方、お茶の祭り

1823年頃、英国陸軍少佐であったロバート・ブルースが、インドのアッサム地方北東部にチャの木が生育している土地を偶然発見しました。イギリス東インド会社はこのお茶の発見により、アッサムだけではなくヒマラヤ山脈のふもと、インド北東部に位置するダージリン地方でも、チャの木栽培実験をする機会を得たのです。カンパニーの社員であったキャンベル博士は、ダージリン地方ピーチウッドにある農場でダージリン茶の種子を栽培する実験を開始し、これを大成功へと導きました。それを受けて1847年、イギリスはこれらの地域で大規模な茶農場を開発しはじめます。それは中国のみに依存したお茶文化の終わりであり、インドで繁栄する新しいお茶文化のはじまりでした。




The Boston Tea Party & the Demise of the British East India Company.
ボストン茶会事件とイギリス東インド会社の滅亡

ヨーロッパと同じくして、アメリカでも1600年代なかばにお茶の文化が花開きました。1664年、ニューアムステルダムなどの植民地が、ブレダの和解によりイギリスに割譲され、それと同時にニューアムステルダムは「ニューヨーク」と改名されました。そして現地人と裕福な入植者たちの間で、お茶の貿易が盛んに行われるようになったのです。

それと時を同じくして、イギリス東インド会社は自身の財務危機を支えるために英国議会にお茶に関する法律とそれによるお茶への重税の導入を訴えました。これにより、イギリスは関税なしに入植者たちと取引を行い密輸されるオランダ茶に対抗、逆にアメリカ現地の商人は税で締め上げ、カンパニーは多くの利益を得るようになったのです。

ボストン茶会事件
ボストン茶会事件

この施策によりアメリカには政治的緊張が走り、結果として現地民の反対と、「代表なくして課税なし」というスローガンを掲げる反抗勢力を生み出しました。そして、「自由の息子達」を標ぼうする現地民がネイティブアメリカンの仮装をして、カンパニーの貨物船を襲撃し、ボストン川へと積荷の茶葉を投げ入れたいわゆる「ボストン茶会事件」が起こると、政治的緊張は最高潮に達しました。

1776年まで続いたアメリカ独立戦争はカンパニーをさらに衰退させましたが、その組織の巨大さ故にかろうじて生き延びました。しかし、リチャード・トワイニング(「トワイニング」社の4代目経営者)を筆頭にした多くの個別の茶商人たちが、カンパニーの腐敗を明らかにする運動をおこし、さらにイギリス政府にも独占権を廃止するよう圧力をかけたのです。その結果、1874年、イギリス東インド会社は滅亡することとなりました。




Clipper Ships and the History of the American Tea Trade.
クリッパー船とアメリカのお茶貿易の歴史

カンパニーの凋落をうけて、1850年代にはアメリカのクリッパー船貿易が、中国より直接茶の輸入をする形で開始されました。「全てのお茶をイギリスから直接輸入しなくてはならない」と定めた航海条例が廃止された後、このクリッパー船はすぐさま紅茶を輸入する最適の方法となりました。3本のマストを持つこの優雅で洗練された船は、あっという間に既存の船を過去のものとしたのです。速度を重視して作られたこの船は、中国やイングランド産の茶葉を我先に、と競争しあうアメリカとイギリスの間のお茶獲得競争を激化させ、そうして手に入れられたお茶はオークションにかけられました。




Tea Innovations in America: Iced Tea & Commercial Tea Bags.
アメリカでのお茶の革新:アイスティーとティーバッグの量産

19世紀には、お茶を飲む習慣は社会生活の中で大きな役割を果たし、そうしてどんどんとお茶文化が広がると、新しい伝統がアメリカで生まれたのです。

アイスティーは1904年、ミズーリ州セントルイスの万国博覧会で生まれました。外国のお茶商人が来訪者に無料の温かいお茶を配ろうとしましたが、非常に暑い天気のせいで見向きもされませんでした。そこであるお茶商人は、近くのアイスクリームメーカーに氷の調達を頼むと、氷をお茶の中に次々に入れたのです。このとき「アイスティー」というあたらしい伝統がアメリカで生まれました。現在では、アイスティーが全米のお茶市場での売り上ので80%を占めています。

ティーバッグの元祖は、綿モスリン、もしくはシルクの袋を手縫いされた手作りのもので、これはMighty Leafのティーパウチとよく似ています。ティーバッグの特許は1903年には既に存在していましたが、通説では1908年、ニューヨークのお茶商人「トーマス・サリバン」が最初に「量産型ティーバッグ」というコンセプトを生み出したと伝えられることもあります。




Tea Today.
今日のお茶

今日では、「お茶」は水に次いで世界で知られる飲料となりました。Mighty Leafでは、職人手作りのティーパウチに、世界中から集めた最高品質の茶葉、ハーブ、スパイスなどを詰め込み、唯一無二の「ホールリーフティー」を作り上げ、何世紀にも渡って続いてきたお茶の伝統を引き継ぎ、誇りとしています。